こんばんは。
人物紹介をメインに広島でフリーライターとして活動しているコジョー(@hito10nari_kojo)です。
今日のブログ。面倒くさい話が始まりそうなタイトルですね。笑
実は私が大学の卒業論文で扱ったテーマです。
(ちなみに、卒論のタイトルは「約束の社会学 〜走れメロスから考える信頼のカタチ〜」…だった気がします(-。-;)もしかしたら、全く違うかも。笑)
最近、文章は“伝える”のか“伝わる”のか…どっちなんだ?
と、頭の中で「鶏が先か、卵が先か」論争を勝手に巻き起こしていた時、ふと卒論のことを思い出しました。
懐かしくなったので、どんなことを書いていたのか記憶を探りながらまとめてみます。
当時を振り返ると苦い思い出がたくさん。卒論の文字数は最低2万字。400字詰の原稿用紙で50枚以上。当時の私にとっては、絶望的な文字数。やっとの思いで書いた卒論を教授に読んでもらうと…
おもしろくない
一言で撃沈。
最終的には「まぁまぁ」レベルまで到達した思い出の卒論をざっくり振り返ってみます。
“鶏が先か、卵が先か”論争に終止符を打つことはできていませんが、
鶏のことも卵のことも考えることができました。
卒論の主なテーマ
- 「待つ」とは?
- 「信頼」とは?
- 「約束」とは?
私たちは「待つこと」ができない?
“さて、卒論どうやって書くの?”と悩んでいたときに、“コレを読んでみろ”と教授からすすめられたのがこちら。
この本に出会えてよかったなー。と、この記事を書きながら改めて感じています。
気になったページに貼った付箋がそのままになっていました。笑
何でこのページに付箋があるんだ?
歳を重ねて感覚や考え方が変わっているのは面白いですね。
待たなくてよい社会になった。
待つことができない社会になった。
待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せて、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ。待ちこがれ、待ちわびて、待ちかね、待ちきれなくて、待ちくたびれ、待ち明かして、ついに待ちぼうけ。待てど暮らせど、待ち人来たらず……。だれもが密かに隠しもってきたはずの「待つ」という痛恨の想いも、じわりじわり漂白されつつある。
「待つ」ということ(角川選書) 著者 鷲田清一
冒頭の文章。今も昔も変わらず惹きつけられます。
こんなにも“待つこと”を想像したことがありますか?
年代によって、一言ずつに対して湧いてくるイメージもきっと違うはず。
卒論を書いたのが10年以上前。
“待たなくてよい時代”はとうに過ぎ、「待つ」という感覚すら無くなってきているのかもしれません。
本の中では、待たなくてよい社会の例として携帯電話が取りあげられています。
イメージしやすいですね。
今なら更に進化してスマホ。
少し遅れる。
何時頃になる?
着いたよ。
“待ち合わせ”とは名ばかりで“待つ”ことなんてありません。
文字にする必要すらありません。
スタンプひとつ。
結局、待つ?のか?そのスタンプひとつを。どうなんだ?
ここから様々な角度で考察が始まります。
私が惹かれた部分をもう少しだけご紹介。
せっかちは、息せききって現在を駆り、未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、実は未来を視野に入れていない。未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。
「待つ」ということ(角川選書) 著者 鷲田清一
<待つ>ことには、「期待」や「希い」や「祈り」が内包されている。否、いなければならない。<待つ>とは、その意味で、抱くことなのだ。
「待つ」ということ(角川選書) 著者 鷲田清一
日常生活、会社、学校など場面を問わず考えさせられる言葉。
コミュニケーションで一番大切なのは、待つことなのかもしれない。
誰かを育てるときに一番大切なのは、待つことなのかもしれない。
待つことの良し悪しは何とも言えません。
時代の流れと言ってしまえば、それまで。
“待たなくてよいかもしれない”
“待つことができないかもしれない”
“待つ必要はなくなったのかもしれない”
でも、待つことを忘れてはいけない気がします。
私が卒論を書いた10年以上前と比べると、あの頃よりも忘れられている気がします。
私自身も忘れかけている気がします。
これ以上は私の頭が追いつきません。
興味のある方はぜひ本を読んでみてください。
信頼する側とされる側。
あなたが選ぶならどっち?
このテーマで参考にしたのが、太宰治の「走れメロス」です。
(あらすじをご存じない方はWikipediaへ)
信頼する側とされる側。
どちらか選ぶとするなら、あなたの答えは?
当時、同じ質問でアンケートを取りました。
結果は、「信頼される側」が大多数。
この結果は、今の時代でもあまり変わらない気がします。
どうなんですかね?皆さんはどう思われるだろう…。
信頼される人、信頼される企業、信頼されることが重要視される社会。
信頼する人がいなければ、当然、信頼される人なんていない。
ちなみに、信頼と信用の違いは?なんてことも自分なりに考察していましたが、ややこしいので省きます。
わたしの行為の、あるいは発言の、どれひとつとしてだれにも待たれることがないという事態に、おそらくひとは耐ええない。親を、友人を、恋人を、ひとが終生求めつづけるのは、「待たれる」ことがじぶんの存在の最後の支えのひとつになりうることを知っているからである。じぶんが待たれるためには、そういう<待つー待たれる>がなりたつような関係の一項としてじぶんもまた関係のなかに入っているのでなければならない。待たれるひとは待つひとでもなければならないのだ。
「待つ」ということ(角川選書) 著者 鷲田清一
誰かに信頼されたいなら、誰かを信頼すること。
これもどっちが良い?悪い?という話ではなく、忘れてはいけないことだと改めて感じます。
頭では理解できても難しい…。
本の中でも、そんな簡単なものではないと続いていきます。
さいごに、もう一つ質問。
信頼する側と信頼される側。
どちらが辛いと思いますか?
約束することを約束する時代
こんな締め括りにした気がするのですが…
思い出せません。
ニュアンスだけ伝わりませんか?笑
実家に帰った時に復習します。
頭がパンクしそうです。笑
待つことも、信頼も、約束も。
何が正しい、何が間違っている、なんてことが重要なわけではなく。
ただ、忘れちゃいけない気がする。
考え方や受け取り方は人それぞれ。
というズルい締め括りで終わります。笑
お許しください。。
かの有名なRADWIMPSさんが「指切りげんまん」という曲を唄われています。
長渕剛さんも「指切りげんまん」という曲を唄われています。
他にも“約束”に関連する曲はたくさんあります。
歌詞を読み比べてみると面白いですよ^_^
指切りを交わした“想い”を唄うのか。
それとも
指切りを交わした“意味”を唄うのか。
時代を感じます。